笹畝(ささうね)坑道(吹屋銅山)


 吹屋銅山は古文書によると大同2年(807年)「大深谷に鉱気これあり銀鉱を得」とあり,何時の頃か銅山にかわり採鉱師によって採掘され戦国時代地方の豪族尼子氏,毛利氏の領有するところとなったが,徳川時代は直轄地(天領)となり,代官の支配下で諸国の銅山師が請負採掘した。泉屋(住友)が天和元年(1681年)より30余年採掘経営中最も栄えたのは元禄年間で日本6大銅山の一つとなり,町も大いに栄え人口も数千人に及び多くの商人や芸人も集まり,遊女屋も開かれたと伝えられている。
 次いで大塚宗俊の子孫代々が吹屋銅山を経営し幕末に至るまで約100年間これに関係している。備中一の宮の吉備津神社の大鳥居は宝暦12年に大塚理右衛門が独力建立寄進したものである。この頃が吹屋は第二期の繁栄期である。
 明治6年(1873年)岩崎弥太郎(三菱)に移り,水力自家発電により選鉱,精錬,坂本から成羽まで,トロッコ専用道路を敷設するなど近代鉱業として明治年間大いに栄えた。
 町も第三次の繁栄をしたが,昭和期に入り次第に衰え現在は閉山されている。
 こうした中にあってこの笹畝坑道は多くの銅山抗口がある中でも比較的変化に富み,当時の面影を残す坑道跡で,昭和53年度吹屋ふるさと村整備事業として復元整備され,昭和54年11月から一般に公開している。坑道の復元延長は320mで中央部は蜂の巣のように採掘されており,また鉱石搬出用軌道も残されておるなど見せ場も多く,内部気温は15℃と夏は涼しく冬は暖かい別天地である。
(成羽町観光協会資料より)

fkoudo2.jpg (19392 バイト) 坑道内

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